声明文 -1回生の1回生による1回生のための「祭り」と「語り」-

声明文

 

我々「1回生をつなげる会」は12月30日(水)夜にネット上で1回生による1回生のための「祭り」と「語り」の場を設けたいと考えている。具体的な形式や内容の告知は後日に回すが、ここではその背景にある考えを述べる。

 

はじめに -奪われた「対話」の機会-

2020年12月、コロナウイルスの第三波が叫ばれ、大学1回生は対面授業や課外活動の機会に恵まれないまま1回生という期間の大半を孤立の中で終えようとしている。ここで訴えたいのは、コロナウイルスが我々から奪った「対話」の機会である。それは出身地、家庭環境、価値観の違う人々と語り合い互いの違いや社会の広さを認識する機会であり、自らの内に秘めた野望を親しい友に打ち明け語らう夜であり、考えや在り方をさらけ出し告白する静けさであり、深い思索の協働や知的創造である。我々1回生はこうした「対話」の喪失によって、「1回生の連帯」と「上回生からの語り」を得られていない。これら二つは今後の我々の大学での学びや経験、ひいては大学全体にとっても大きな損失であると考える。

 

「1回生の連帯」の喪失

 対面授業やサークル活動での交流の機会を失い分断の中を生きる我々1回生は、大学生としての生活も「京大生」としての意識も持たない。互いに協力し、議論し主張するための土台である連帯が失われた以上、大学の中で1回生の存在は空気に等しい。それは、上回や善意の他者もしくは社会によって語られる「可哀そうな大学生」としてしか発言を許されず、記憶とともに風化していく存在である。だが私たちがここで苦しみ、考え、経験したことは私たちのものである。私たちは他者に都合の良い「被害者」として召喚される幽霊ではなく、自ら考え議論し意見を表明していい主体である。

 

「上回生からの語り」の喪失

そして奪われた「対話」の機会は1回生だけではなく京都大学全体にとっても決して無視のできるものではない。我々1回生は、これまでに京都大学の学生が思考し、苦悩し、議論し、対話を重ねて到達した語りを、上回生との交わりの中で継承することができていない。これは世代間での決定的な断絶をもたらし、社会や学問について考えるという大学の機能と学生としての本来の役割を、就職予備校とそこのお客様としての物言わぬ存在に一気に後退させかねない。私たちがこれからも大学で考え・議論し対話を続けていくためには、上回生が共有し展開してきた語りを引き継ぎ、吟味し対話をし続けるという姿勢や在り方から学び取っていく必要がある。

 

語りの場に期待するもの

我々が今回の企画で創り出すのは、1回生による「祭り」と「語り」である。私たちは「祭り」を行うことによって1回生が社会・大学に確かに存在し、モノを感じ、考え、生きているということを主張する。同時に私たちはこのイベントにベネディクト・アンダーソンの出版資本主義論(『定本 想像の共同体 ナショナリズムの起源と流行』白石隆・白石さや訳、書籍工房早山、2007年)で説明されているような、メディアとしての統合機能を期待する。ナショナリズム形成の過程で俗語新聞が離れた地に住み素性や属性さえ異なる人々を互いに想像させて連帯を創り出したように、1回生による1回生のため「祭り」が大きな影響力を持ち、広く拡散しより多くの学生に届くことで、それは自分と同じような「1回生」の存在を意識し・想像するきっかけとなる。京都にいてもいなくとも、我々を結び付けるこの「想像の」繋がりは1回生の連帯の創造に大きな役割を果たすだろう。そして「語り」の場においては、1回生がどのような考えを持っているのか、上回生達がこれまでどのような語りを持ってきたのかを引き出し、拡散・記録することでこれまで京都大学で蓄積されてきた議論や前提を引き継ぎ、考え議論し主張する主体としての学生の第一歩としたい。

 

2020.12.21 1回生をつなげる会